2009年06月14日

金属ケイ素(比較的低純度のもの)と塩化メチルを

大手メーカーでは原料のシラン類から一貫して製造する事が多い。
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金属ケイ素(比較的低純度のもの)と塩化メチルを銅触媒の存在下で300℃前後に加熱すると、ジメチルジクロロシランを主体とするシラン類が生成する。 塩化メチル以外にも、目的となる有機基や骨格構造によって、様々な有機塩素化合物が使用される。例えば、フェニル基の導入に必要なフェニルシランはクロロベンゼンが利用される。 ただし、いずれにしても副生成物が多いため精留工程が欠かせない。分離された副生成物は再度反応させたり、シランとして利用される。

次いで、加水分解と脱水縮合工程であるが、塩素化シラン類は加水分解によって塩酸を生じ、これが酸触媒として作用するため、生成したシラノールはそのまま自己縮合してシロキサンとなる。 従って、製造しようとするシリコーンに応じ、シラン類の配合比や副原料、反応温度などの調整が重要となる。

製造プロセスで精留工程を経るため、シラン類の純度が高く、製品の性能を高くする要因となっているが、加水分解と脱水縮合を同時進行させるため、製品中に環状シロキサンなどの低分子成分が含まれがちとなる。用途によっては障害の原因となるため、含有を低減させる手法も開発されている。

歴史 [編集]
シリコーンが初めて合成されたのは、20世紀初めにイギリスのキッピング (en:Frederic Stanley Kipping) によるグリニャール反応の研究過程でと見られている。やがて、その優れた性質が知られるようになったものの、費用・収率などの面から実験レベルに留まっていた。 その後、応用研究がアメリカで進められ、1940年にGE社のEugene G. Rochow による直接法開発を契機として、耐熱絶縁体として軍需産業で利用が拡大した(B29にも使用された)

日本では東京芝浦電気が1941年にケイ素樹脂の研究に着手し、1951年から自社製品に使用している。シリコーン素材としての販売は、1953年に信越化学工業から。

市場規模 [編集]
北米、EU、東アジアを中心に、2000年現在で約70億ドル[2]と推定され、生産、消費とも拡大傾向が続いている。 主なメーカーは、ダウ・コーニング(ダウ・ケミカルとコーニングの合弁事業)、モメンティブ・パフォーマンス・マテリアルズ(ゼネラル・エレクトリックから事業買収)、信越化学工業、ワッカーケミー(独)、ローディア(仏)。国内では東レ、旭化成が海外大手との合弁事業を行っている。

2009年05月29日

グノーシス主義

1世紀に生まれ、3世紀から4世紀にかけて地中海世界で勢力を持った古代の宗教・思想の一つである。物質と霊の二元論に特徴がある。普通名詞としてのグノーシスは古代ギリシア語で認識・知識を意味する言葉であり、グノーシス主義は自己の本質と真の神についての認識に到達することを求める思想傾向を有する。

またグノーシス主義は、地中海世界を中心とするもの以外にイランやメソポタミアに本拠を置くものがあり、ヘレニズムによる東西文化のシュンクレティズムのなかから生まれてきたものとも云える。代表的なグノーシス主義宗教はマニ教であるが、マニ教の場合は紀元15世紀まで中国で存続したことが確認されている。

1966年4月にイタリアのメッシーナ大学でグノーシス主義研究者たちの「国際コロキウム(シンポジウム)」が開催され、そこでグノーシス主義とは何であるかという学術的な定義について一つの提案が行われた。これを「メッシーナ提案」と通称する。半世紀近くの時を経てグノーシス主義に関する研究も進展したが、グノーシス主義を語る上でメッシーナ提案は研究者たちの共通基本認識として前提となる。

この提案では、紀元2世紀から3世紀頃のキリスト教グノーシス体系を「グノーシス主義(Gnostizismus)」と定義し、これを含めたより広い意味での「秘教的知識」の歴史的カテゴリーを「グノーシス」と定義した[1]。この提案によれば、「グノーシス」とは「グノーシス主義」を「典型」とする非常に範囲の広い意味を持つことになり、これはハンス・ヨナスが提唱したように、「精神の姿勢・現存在の姿勢」であるという解釈が概ねにおいて承認されたものである。マニ教や、カタリ派、ボゴミール派などは当然として、それ以外にも、時代や地域を越えて、「グノーシス」は人間の世界把握の様式から来る宗教または哲学的思想として普遍的に存在するものとの考えが示された[2]。
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しかし必ずしもこの用法が定着したわけではなく、一般に「グノーシス」ならびに「グノーシス主義」という言葉は同義語として用いられている[3]。したがってこの記事では広い意味での「グノーシス」として、グノーシス主義という言葉を用いる。

物質からなる肉体を悪とする結果、道徳に関して、二つの対極的な立場が現れた。一方では禁欲主義となって顕われ、他方では、放縦となって現れる。前者は、マニ教に見られるように禁欲的な生き方を教える。後者は、霊は肉体とは別存在であるので、肉体において犯した罪悪の影響を受けないという論理の下に、不道徳をほしいままにするタイプである。4世紀の神学者アウグスティヌスがキリストに回心する前に惹かれたのは、前者の禁欲的なタイプであったと言われる。

2009年04月25日

戦後処理は極めてずさんであり

19世紀後半から20世紀前半の世界的な評価は、「諸民族の牢獄」「遅れた封建体制国家」と断罪するものであり、民族自決理念による各民族の自立は、連合国にとっての戦争の正当化のための宣伝材料として申し分なかった。中でも「ポーランド復活」は、連合国にとって戦争目的の本丸と同義であり、これを果たした連合国は天狗になった。

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戦後処理は極めてずさんであり、大国の思惑が絡み合って領土確定が行われたことで、東欧は戦雲が晴れることはなかった。戦争目的の筆頭だったポーランドは領土問題に不満を持ち、ソヴィエト連邦やチェコスロヴァキアと戦争状態に陥り、かつてのオーストリアの盟邦ハンガリーも戦争責任を問われて領土が縮小されたため、不満がくすぶり続けた。中欧・東欧の混乱は「ヨーロッパの火薬庫」といわれていた第一次世界大戦以前より悪化した。オーストリアでは、基幹産業が無くなり深刻な不況に陥った。

ドイツでヒトラーが台頭すると、かつて連合国側が掲げた「民族自決」を逆手に取られ、中欧・東欧諸国に散らばっているドイツ人の保護を名目として次々と攻略された。中欧・東欧の小国は各個撃破され、かつての帝国諸民族の血みどろの抗争が繰り広げられた。そして第二次世界大戦後、中欧・東欧の諸国の大半はソ連の衛星国として東西冷戦の最前線となった。結局、諸民族が混在して民族ごとの領域を確定できない中欧・東欧で、無理やり「民族自決」が適用されたために、更なる混乱が生まれたのである。

帝国の支配体制の一番のメリットは、この混沌とした地域を一応1つにまとめていたことにある。民族は違えど同じ帝国臣民として、帝国内を行き来し、戦争もともに戦った。ドイツとロシアという大勢力の狭間に存在した1つの大国であった。昔からビザンツ帝国、大ハンガリー、モンゴル帝国、オスマン帝国などの支配下に入り、分断・併合の連続だった同地域における秩序確立は、緩やかな統合による他ない。その点だけでも帝国の存在意義はあった。

帝国内の各民族の地位については、時代が下るにつれて向上してきていた。諸民族のねばり強い運動や各地域の重要性などもあり、支配階級も譲歩せざるを得なかった。帝国の「民主的連邦制」への改変まではいかなかったが、それなりの地位を得ることはできた。しかし、その中途半端さが独立への道に進ませたことも事実である。オーストリアの場合は、崩壊の仕方が全くもって最悪であった。長引く戦争で、諸民族の連邦制支持派が衰退して独立派が台頭し、連合国のその場しのぎの餌食となった。諸外国の介入を受けても引き離されないほどの一体感を、諸民族にもたせることができなかったことが、この帝国の一番の失敗であったと言える。

逆に、諸民族の離脱によって取り残される形となった、オーストリアのドイツ系住民にとっては、帝国の崩壊のみならず大ドイツ主義に基づくドイツとの合併までも禁止された事は、自己のアイデンティティの喪失を意味したものとなった。これは後々までオーストリアの政情の不安定さをもたらし、ついにはナチス・ドイツによる併合(「アンシュルス」)へと至らしめた。のちの悲惨さを思えば、民主的連邦制へ移行できなかったのが、激しく悔やまれたのだった。

2009年04月09日

LSD誕生以前のリゼルグ酸化合物

薬物が化学合成される以前、向精神物質(化学合成のない当時、向精神物質は植物もしくは植物から製造されたものである)は世界のいたるところで宗教的儀式において使用され、崇拝の対象になり、その酩酊作用から神話の題材や民話になった。

北シベリアやオビ川、イェニセイ川流域に住む諸部族はイボテン酸を含むベニテングタケを神聖な物として崇め、シャーマン儀式に用いていた(ベニテングタケには幻覚の他にも酔いを引き起こす作用もあり、ロシア人の征服によりアルコールが伝えられる以前まではアルコールの地位を占めるものであった)。

メキシコ北部ではメスカリンを含むペヨーテが、メキシコ南部ではリゼルグ酸アルカロイドが含まれるバドーネグロやオロリウキ等、アサガオとその近縁種は神聖の植物とされ、シャーマンに用いられていた。

特にLSDに関係あるものとして、古代ギリシアのアテネ郊外で西暦5世紀までの2000年間続けられたエレウシスの秘儀で使用されていた、情緒的作用を引き起こす飲み物キュケオンは、小麦、水、ミントから製造され、この小麦に麦角菌に由来するリゼルグ酸アルカロイドが含まれていたと考えられている(この儀式の秘密を漏洩した者は死刑に処されたため、儀式の詳細は分かっていない[9])[9]。紀元前415年にアテナイのアルキビアデスが友人を楽しませるためにキュケオンを振舞ったとして罰金刑を受けた事実が確認されている[10]。

また、15世紀から18世紀にかけてヨーロッパ各地で行われた魔女裁判について、裁判が行われた地域の多くが麦角の発生しやすいライ麦に依存していた地域であり、特に裁判数が増加した年の春と夏は湿度が高く、気温が低く麦角の生育に適した環境であったこと、魔術や覚醒によって引き起こされたとされる症状や体験が麦角中毒の症例に似ていること等から、魔女裁判が麦角中毒を原因として引き起こされたとする説がある。

民間療法における使用
イネ科、その他穀物に発生する麦角は麦角アルカロイドという物質を含み、麦角中毒を引き起こす。麦角中毒はヨーロッパではペスト、コレラとともに最も恐れられた病気の1つであった(麦角は主食である麦を侵し、流行するたびに数千人の死者が出た)。

麦角中毒は筋肉の痙攣や痙攣性のひきつりが起こり、皮膚に水疱が生じ、麦角アルカロイド中のリゼルグ酸アルカロイドにより目眩や幻覚、癲癇のような発作を起こす。また、強烈な血管収縮作用により、四肢に焼けるような感覚(聖アントニウスの火と呼ばれた)が続いた後、手足が黒ずんで壊死する[12]。

麦角の存在は紀元前より知られ、たびたび文献に記述が見られる(紀元前7世紀ごろのアッシリアの古文書に「穀類に付着した有毒な小結節」という記述が見られ、これが記録に残された麦角の最初の例であるといわれる[13])。当初、その毒性から恐れられていたが、やがてその血管収縮作用に着目し、各地で陣痛促進剤や分娩後の止血剤として用いられていた。

化学の進歩と抽出 [編集]
19世紀後半になると、麦角から有効成分を抽出する研究が盛んとなり、1907年にはG・バルガーとF・H・カールがエルゴトキシンを抽出するのに成功し、A・シュトルとE・ブルックハルトらがエルゴバシンを抽出した。その後、W・A・ジェイコブズとL・C・クレイグらはエルゴバシンの科学的分析を行い、麦角アルカロイドの基本的構造分子を分離しリゼルグ酸と名づけた[15]。 1918年、A・シュトルが抽出したエルゴタミンは偏頭痛薬や産科での止血剤になっていた。1930年代頃にはイギリス、アメリカの化学界は麦角アルカロイドの研究が主要となっていた

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2009年03月25日

太陽の王子 ホルスの大冒険

『太陽の王子 ホルスの大冒険』(たいようのおうじ ホルスのだいぼうけん)は、東映動画(現・東映アニメーション)製作の劇場用アニメ映画。公開は1968年7月21日、上映時間82分、シネスコ(東映スコープ)。「東映まんがパレード」(のちの「東映まんがまつり」)の一本として上映され、同時上映は『ウルトラセブン』、『魔法使いサリー』、『ゲゲゲの鬼太郎』だった。

アイヌの伝承をモチーフにした深沢一夫の戯曲(人形劇)『チキサニの太陽』を基とし、舞台を「さむい北国のとおいむかし」として製作された。

「東映まんがパレード(東映まんがまつり)」の主要ターゲットである低学年向けには話が難しすぎたためか、公開当時は不評であり興行的にも失敗に終わったが、その後、再評価され、『わんぱく王子の大蛇退治』、『長靴をはいた猫』、『どうぶつ宝島』などと共に、現在では東映動画が制作した劇場向け長編映画の最高傑作の1つとされている。

制作トップに立った高畑勲にとっては初めての大作となり、若気あふれる野心作ともなった[1]。前述のように興行的な成功は無かったとはいえ、高畑自身の評価の向上に貢献し、高畑が中編・長編アニメに進出する足がかりとなった。宮崎駿が本格的に制作に携わった初めてのアニメ作品としても意義深い物である。

余談だが、公開当時に作詞家のなかにし礼は本作品に感銘を受け、「太陽の剣」というタイトルで作詞している。作曲は村井邦彦。歌と演奏は、モンキーズの来日公演で前座を務めたザ・ブルー・インパルス(1968年10月25日RCAビクターから発売)。

悪魔グルンワルドの手から自分の息子を守りたいという一心で、父の手によって他の人間の許から離されて育ったホルスは、ある日岩男モーグに出会い、モーグの肩に刺さっていた太陽の剣を抜き取る。モーグはそれをホルスに与え、それを鍛え直した暁にはそれを持つ者は太陽の王子と呼ばれるようになり、モーグ自身もその許に馳せ参ずるだろうと告げた。意気揚々と走り回るホルスだが、次にホルスを待っていたのは父が危篤であるという知らせだった。ホルスの父は、ホルスを人間の元から離して育てた事は間違いであり、他の人間の所に向かうようにホルスに告げて、息絶える。

父の遺言に従い、他の人間の住む陸地に辿り着いたホルスだが、早々にグルンワルドの手下に捕らえられてしまう。その後グルンワルドとの対面を果たすが、グルンワルドの弟になることを拒んだために崖から突き落とされる。太陽の剣のおかげで急死に一生を得たホルスは、気を失っていたところをガンコ爺さんに助けられ、ガンコ爺さんの鍛冶仕事に関心を持つ。

しかしその村はグルンワルドの手下である大カマスのために魚が獲れず、食料不足に苦しんでいた。大カマスの退治に向かった若者達が為す術も無く帰ってきた様子を見たホルスは、一人大カマスのいる滝壺に向かい、見事大カマスを仕留める。一人で大カマスを仕留めたと言うホルスに村人は驚きを隠せないが、程なくして再び魚がやってくるようになり、ホルスは一躍村の英雄となった。しかしそれは同時に村長とドラーゴの嫉妬心を買う事も意味していた。

死んだとばかり思っていたホルスが、大カマスを退治したという知らせを聞いたグルンワルドは、狼たちを村に遣わすが、一致団結した村人の前は歯が立たず、多くが討たれる。討ち逃した銀色狼を追っていたホルスは、廃墟の村の中でヒルダと出会い、孤独な境遇に親近感を抱いて村に招く。ヒルダはその美しい歌ですぐに村人たちに気に入られた。

しかしヒルダは、過去の記憶が足枷となっているのか、協調的に生きる村人の輪に入る事が出来ない。ヒルダの孤独感はむしろいや増し、それに伴ってヒルダの悪魔としての心が呼び覚まされていく。トトにそそのかされたヒルダは、村人たちにホルスに対する疑念を抱かせ、ホルスを迷いの森へと誘い込む。

迷いの森に堕ちたホルスは、次々に襲ってくる幻想に苦しめられるが、その中でグルンワルドに対抗する手がかりをつかむ。村人全員が力を合わせれば、グルンワルドに対抗する力に成り得ることを知ったのである。ヒルダの心の葛藤も見破ったホルスは、ヒルダの人間の心を呼び覚ますことにも成功する。

ホルスのいなくなった村では、グルンワルドの出現におののいていた。グルンワルドの魔法で村は吹雪に襲われるが、その中でもガンコ爺さんやポトムたちがグルンワルドに対抗しようと必死に策を練っていた。ガンコ爺さんが積み上げた薪に火をくべ、村人を団結させたところにホルスが舞い戻り、団結の象徴であるその火で太陽の剣を鍛え上げる。約束通りモーグも応援に駆けつけ、グルンワルドは退散を余儀なくされる。勢いづいた村人たちはグルンワルドの城まで追い討ちをかけ、モーグによって太陽の光を浴びせられてグルンワルドがひるんだところにホルスが太陽の剣でとどめを刺し、グルンワルドは倒れる。

ヒルダは、雪の中を彷徨うフレップとコロに命の珠を与えたが、息絶える事はなかった。勝利に沸く村にヒルダも現れ、ホルスがヒルダの手を取り、ポトムたちと駆けていくところで大団円となる。

バース むぐら ティラミス スカーレット テキーラ 吉日 メルルー ももいし 高潔 サーチ花粋 オーラップ フロア ブイヤ マデイラ シュロ コムタン 滝の白糸 西村 ネガ トール いこて ツリフネソ ミドル マインド ビッグ ラット レックス 夾竹桃 キエフ ラクーン ブルガリ チョッパー メンデル バリウ モルガ ピュアコ バグダッド ひおき マイナ トウガラシ なんぽろ ライフボート ルミッ リアダ ステロール ジャスミン 水玉シャツ ジャンボ シプル パスボール

2009年03月09日

ミケーネ文明

ミケーネ文明(みけーねぶんめい)は、エーゲ文明のうち、ペロポネソス半島を中心に栄えた青銅器文明である。

イギリスの考古学者サー・アーサー・エヴァンズは、自身の考察から、1900年にクノッソスを発掘し、そこで発見した線文字Bをクレタ島のミノア文明発祥のものと考えたが、1939年にピュロス王宮で線文字Bの刻まれた粘土版が発見され、実際にはこれはミュケナイ文明で用いられたものと判明した。1952年にはミュケナイ王宮、1971年にはティリンスでも線文字Bを記した粘土版が発掘されている。

ミケーネ文明は、紀元前1450年頃、アルゴリス地方で興り、ミノア文明と同じく地中海交易によって発展した。ミノア文明との貿易を通じて芸術などを流入し、ついにはクレタ島に侵攻、征服したと考えられる。このころ、ミュケナイはトローアスのイリオスを滅ぼし(トロイア戦争)、後にこれをホメロスが叙事詩『イリアス』の題材としたが、イリオスで大規模な破壊があったことは認められるものの、これが事実かどうかは推察の域を出ない。紀元前1150年頃、突如勃興した海の民によって、ミュケナイ、ティリュンスが破壊され、ミュケナイ文明は崩壊した。
キネテ 紅葉の旅 菊座おり しぼり キューシ チェリー シンボル オートキプ ニース オレン よぶすま ラン タイト フォール オムレツ フーガ グマー ディム ドナルドック かみす ラビ ふじ豆 エッグ エッジボール レプラ タロッ 全国通 タウン ガーネット スイッチ デニム マハラ ロール コロンブス タスク フェーン パツ バルカン スケッチ タロー プレッピ ロッタリ メッキ しとみや スイー ロード ハドロン ゆうじょ テーベ

ミノア文明の建築が開放的であったのに対し、ミケーネ文明の建築は巨石を用い、城壁で囲まれ閉鎖的である。中庭はミノア文明のそれとは異なり、動線の基軸として存在していない。中庭に代わる動線の基軸はメガロンと呼ばれる室内空間で、記念性を持った特権的な空間を構成し、中庭はその付属物である。 建物は対称性が重視されている。

のちのポリス社会と異なり、王が君臨し統治下の村々から農作物、家畜などを貢納させていた。貢納を受ける役人が存在していたが、エジプトやメソポタミアほど統治機構の整備は進まなかった。

2009年02月22日

不老不死

不老不死(ふろうふし)とは、永久に老化することも死ぬこともなく生き続けること。すなわち若々しい姿のままで通常の寿命を超えた時間を生きることを意味し、主に大陸系文化において、受け入れられる理想の一つでもある。類義語に「不老長寿」(ふろうちょうじゅ)がある。医学的には、寿命が平均より大幅に短くなる早老症は確認されているが、逆に老化が全く進まず常人と比して数倍の寿命を持つ不老症(?)は確認されていない。
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老化と死はヒトにとって避けられない恐怖である。この両者を被らなければ、幸せな状態が持続するであろうとの空想を実体化したものが不老不死である。古くから世界各地でこれが理想とされ、それに至る道が模索された。また、神などの超現実の存在には往々にしてこの属性が与えられる。

現代の科学においても老化の防止は重要な課題であり、その意味では今も人類は不老不死を求めている。

他方、生物全体を見れば不老不死であるかもしれない存在はいくつか考えられる。ただしその判断は難しい。

なお、不死であり、老化しないことを実現する空想としては、老化が起こってから後、元の状態に戻る、というのが考えられ、こちらは若返りといわれる。概念的にはやや異なるが、例えば若返りの泉などやはり空想上の産物としては世界各地に例が多い。

伝承
古くは中国の始皇帝が不老不死を求め、徐福に蓬莱の国へ行き仙人を連れてくるように命じた[1]。『史記』の他の項では不老不死の薬が得られなかった代わりに「延年益寿」の薬が出ており[2]、これは「不老長寿」ともとれる。日本の『竹取物語』では不老不死の秘薬が物語の最後に登場した。おそらく最古の不老不死説話はメソポタミアの『ギルガメシュ叙事詩』で、紀元前2000年頃には出来ていたと思われる。ギリシア神話のティターンや北欧神話のアース神族など、西洋の神話においても、不老不死は多々登場する。

フィクションにおいては、「死なない」ということと同時に「死ねない」ことに視点を置き、重傷を負っても死亡せず長く痛みを味わったり、永遠に続く人生を疎んだりと、不老不死の負の側面を取り上げることも多い。

哲学・論理学的解釈
尚、「永遠の命」が本当に永遠なのかという命題を証明するためには無限の時間が必要となる為、「永遠の命」が真に永遠であると証明される瞬間は、厳密に言えば永遠にやって来ない事になる。

生物学的解釈
生物学的な見地では、個性の宿る個体が滅びたときがすなわち死である。ほとんどの生物は人間が観察できる範囲の寿命を持ち、その範囲で死を迎える。また、その際に老化と呼ばれる生体能力の低下が見られ、明らかにその先生き続けられないことが見て取れる。樹木などでは老化は見て取りづらく、またヒトよりはるかに長期にわたって生存することがわかるが、それでも数千年を超える例はない。したがって不老不死の生物はない、と考えるのが普通である。

単細胞生物は実質的に不老不死ともとれる。有性生殖の場合その個体は一代限りで限りあるが、単細胞生物は分裂しても同じ個体とみなせるからである。しかし、そのような生物でもたいていどこかで有性生殖を行っているので、単純にそう考えるのは誤りである。例えばゾウリムシは、分裂には回数制限があり、有性生殖を行うことで新たに分裂がはじめられることが知られる。

なお、本当に不老不死の生物として、ベニクラゲはクラゲが老化して後、萎縮して再び幼生であるポリプに戻ることが判明しており、これを繰り返すことで実際に不老不死であると考えられている。つまり老化しては若返るわけである。同様の現象はもう1種、ヤワラクラゲで知られている。

不老不死に向けて
今日の医学では、不可能だが、不老不死にむけての研究は始まっていて、成果も出ている。

2009年02月05日

ロック・ハワード(Rock Howard)

『餓狼 MARK OF THE WOLVES』(以下、『MOW』)の主人公。『餓狼伝説』シリーズの悪役、ギース・ハワードの実の息子である。しかし登場作品中の描写で判明している限り、ギースの元で過ごした時期は無い様子。
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病身の母との二人暮しを経て、その母の死後はテリー・ボガードを養父として育つ[1]。なお、その頃は既にギースもテリーに倒されて死亡しており、ギースの死を知ったロックはやり場のない怒りをぶつけるためテリーに戦いを挑んだという。『餓狼伝説3』などでテリーのエンディングに出てくる少年が、この時期のロック・ハワードであると見られている[2]。母をかえりみなかった父・ギースを恨んではいるが、ハワード姓を名乗っている[3]。

格闘技の手解きは養父のテリーに受けているため、テリーと同じ技(ライジングタックル)を使うが、父と同じ技(烈風拳やレイジングストームなど)も使う[4]。『MOW』のロック自身のエンディングにおいて、母に関する秘密がほのめかされたが、続編が作られていないため謎のままに終わっている[5]。

男だらけの中で育てられたため、女性が苦手という設定が『MOW』時にはあり、女性キャラクターと戦った時の勝利メッセージにもそれが表れていた。『CAPCOM VS. SNK 2』以降の登場作品では女性キャラクターへの対応は普通なものになっているが、それでもモリガン・アーンスランドや不知火舞、B.ジェニーのようなグラマラスで露出度の高い女性に対してはやはりシャイな反応が見られる。ニノン・ベアールには不気味さから少し怖気づいていた(ニノンにとってロックは異性として好みのタイプである)。養父であるテリーが所詮ホームレスであったためロックは義務教育課程を修了していないようで[6]、そのために女性と知り合う機会が少なかったと思われる[7]。ちなみに、ドンファン&ジェイフンとは旧知の関係。

また、恋愛シミュレーションゲーム『Days of Memories?彼と私の熱い夏?』にも登場している。Days of Memoriesシリーズ唯一の女性向きストーリー作品で、ロックは江坂の雷門学園(高等学校)にやってきた転校生という設定。そのルックスから転入早々、女子生徒たちのアイドルに。影で「王子」と呼ばれファンクラブが結成されている。 だがシャイな性格の設定がここでも健在で、あまり居心地よく思っていない。 テリーがコーチを務めるバスケ部に入るが、その天性の才能のためか周囲と対立、親しい友人はいない様子。保護者代わりでもあるテリーだけを信頼している。テリーと一緒に寮で生活している。 公式設定では17歳である年齢が、この作品では16歳になっている。ちなみにキャラ設定は原作に忠実だが、『Days of Memories』自体はパラレルワールドである。

各種技の解説

特殊技
アークキック
『MOW』では下段避け攻撃。前進しながら振り上げた踵を落とす技で、ギースの「雷光回し蹴り」に似ている。
技名は『CAPCOM VS. SNK 2(以下、カプエス2)』でのもの。

必殺技
烈風拳
掌に気を溜め、地面に気をぶつけ気の波を作り相手に放つ。ギースの同名の技とほぼ同じ。
ダブル烈風拳
両掌に気を溜め、片手ずつ地面に気をぶつけた後に気の波を重ね大きな気の波を作り相手に放つ。これもギースの同名の技とほぼ同じ。
ダブル烈風拳・改
『KOF MAXIMUM IMPACT 2(以下MI2)』から使用。ダブル烈風拳を出した直後にコマンドを入力すると、この技に移行する。
ダブル烈風拳に比べると射程は短いが、こちらは相手を吹き飛ばし、他の必殺技でキャンセルが出来る。
真空投げ
ギースの同名の技とほぼ同じだが、「ブレーキング」が可能で、それにより投げた相手に空中追撃ができる。後述するレイジラン・type「シフト」から出すと投げた相手が飛ばされる軌道が変わり、近くに落ちてくるようになる。
羅刹
真空投げのブレーキングからさらに移行する専用の追撃技(『MI2』ではブレーキングとは別のコマンド)。片手に気を溜めて突き出し発射する。真空投げとセットで羅生門が元だと思われる。
ライジングタックル
テリーのものとほぼ同じ技。ヒット数はテリーのものより少なめ。
ハードエッジ
肘打ちで突進する技。強で出すと肘打ちの後に気を込めた掌底も決める。ギースの「邪影拳」を元にしていると思われる。性能としてはテリーのバーンナックルに近い。
クラックカウンター
相手の攻撃を受け止め、テリーの「クラックシュート」のような踵落としを決める。ギースの当て身投げが元であると思われるが、それより操作は簡単な分相手がすぐに起き上がる、超必殺技を受け止める事が出来ないと言う点、攻撃を受けても場合によっては攻撃が確定しない(ガードされる)など、ギースのものよりは性能が劣る。
ボルディング
『MI』シリーズのみに存在する、クラックカウンターからの追撃技。踵落としでダウンさせた相手を蹴り飛ばす。
レイジラン
素早くダッシュする。ボタンの強弱で接近後の行動と技名が変わる。
レイジラン・type「ダンク」
テリーの「パワーダンク」のように飛びながら拳を打ち下ろす。
レイジラン・type「シフト」
さらに加速し相手の後ろに回りこむ。回り込んだ後に真空投げに派生可能。
レイジラン・type「セーブ」
『カプエス2』のみの技。攻撃をせずに停止する。
レイジラン・type「アッパー」
『MI2』からの技。アッパーカットで相手を打ち上げる。

T.O.P.アタック
オーバーヘッドキック
高い放物線の軌道で跳んで繰り出す。『MI』シリーズでは特殊技になっている。

[編集] 超必殺技(潜在能力)
レイジングストーム
ギースの技。ギースのものとは違い、気の奔流とでもいうべきエフェクトになっている。
ギースより出しやすいコマンドになっているが、ギースより威力は低くなっている。
この技で勝利すると専用の勝利ポーズとなり、体から溢れ出る気を納められずに苦しむ。『MOW』では勝利画面のメッセージも専用のものとなる。
『MOW』の潜在能力、『CVS2』のレベル3バージョンなどは溜めて出すことも出来る。
シャインナックル
拳に光を纏わせ突進する。潜在版は突進後、肘打ち(上段避け攻撃と同じ動作)から「ライジングタックル」に繋ぐ。テリーの「バーンナックル」を元にした技と思われる。
この技にも専用の勝利ポーズがあり、こちらは上着を相手に投げる。これもテリーの帽子を投げる勝利ポーズが元と思われる。
デッドリーレイブ・ネオ
ギースの「デッドリーレイブ」とほぼ同じ技。
この技で勝利した場合、「レイジングストーム」同様の勝利ポーズになる。
ネオ・レイジングストーム
『MI2』から使用。相手を空中に打ち上げ、落ちてくると同時に「レイジングストーム」を放つ。

その他
ロックの外見は『MOW』と同じくTONKOがキャラクターデザインを担当した『月華の剣士』の主人公、楓が覚醒して金髪紅眼になった姿に良く似ており、『MI』シリーズではアナザーコスチュームとして楓のコスチュームを着たロックが使用できる。
現在、『KOF2003』以降からテリーが『MOW』と同じ姿で登場するようになった事や、同時に他の『MOW』のキャラクターが『KOF』本編に参戦したことから、ファンの間でロックのKOF本編への参戦希望が高まっている。ただ、以前に『餓狼』製作スタッフが「ロックは次世代の餓狼シリーズを担うキャラなので(『KOF』へは)参戦させないで欲しい」とKOFスタッフに頼んだという話がある為、かなり難しい状況と思われるが、SNKが倒産後社員が離散し約束自体が形骸化していること、SNKプレイモアになってから新シリーズを作っていないことから、参戦するのではないかとの憶測もある(年齢の矛盾や、『KOF』で生存しているギースとの関係を指摘する声もあるが、もともとお祭ゲームである『KOF』シリーズでは『龍虎の拳』シリーズと『餓狼伝説』シリーズの年代差等の問題も無視されており、構わないのではという意見が多い)。
『THE KING OF FIGHTERS 2001』と『KOF2002』では、テリーの勝利ポーズに登場する。ここでは若い姿のテリーに応じて、ロックも子供の姿である。一方オリジナルシリーズとはパラレル関係にある『KOF MAXIMUM IMPACT』シリーズでは『MOW』と同じ姿で登場し、『MI』とオリジナルシリーズの『XI』の両方の後日談であるアニメ『The King of Fighters: Another Day』でも成長した姿となっている。
『MAXIMUM IMPACT 2』やアニメ『Another Day』では、実父の側近であったビリー・カーンに執着されており、ビリーからは「あのお方の息子」と呼ばれ、その発言に声を荒げて「あの男の息子なんかじゃない」と反論する。
『餓狼伝説Special (パチスロ)』ではレア演出としてテリーステージでロックの姿が目撃されている。さらに2009年1月に導入が開始されたマキシマムインパクト(パチスロ)にも登場。キャラクターをソワレ・メイラに選択した場合、バトル演出STAGE2の対戦相手となる。
ダウンタウンの松本人志はコスパ発売のロックのジャンパーを持っている。知人からのもらい物で、ゲームキャラのコスプレ用だとは知らないらしいが、たまに着ているらしい。
余談だが、その松本が主演を務めたドラマ『伝説の教師』の第一話で、中居正広が『MOW』をプレイしているシーンがある。中居はドンファンを使っており、相手役の俳優はロックを使っていた。
ロックステージのBGM「Spread The Wings」の旋律には、一部ロバート・マイルスの「Children」という曲に似ている部分がある。

2009年01月21日

親政を中止して議会を召集

第1次(1639年)および第2次(1640年)の主教戦争によってイングランド王室は財政の限界に達し、親政を中止して議会を召集せざるをえなくなった。これがイングランド議会と国王の対立を招いた一因とされる。

スコットランド内はほぼ盟約派として団結し、祈禱書の停止を議会で宣言した。さらにイングランドのチャールズに主教戦争を挑み、両軍はイングランド北端、トゥイード川河口のベリックで対峙した。これは結局対峙しただけでチャールズが和議を申し込み、ベリックの和約が成立した。

和約が成立したものの、チャールズは主要な対立点である宗教問題について譲歩しなかった。それだけでなくカトリックの有力氏族を北方長官に任命し、スコットランドに主教制度の浸透をはかった。必然的にスコットランド盟約派はふたたび軍をおこし、モントローズ侯がディー橋の戦いで国王派を破った。これによって、第2次主教戦争が始まった。

盟約軍の南進の報がイングランドに届いたが、チャールズには軍をしたがえるだけの資金が底をついていた。盟約軍がニューバーンでイングランド軍を破り、ニューカッスル・アポン・タインを占領したところでチャールズが和平をもとめてやってきた。こうして締結されたリポン条約は賠償金の支払いが盛り込まれた。これがイングランド財政をいよいよ払底させ、長期議会召集につながることになった。主教戦争がひと段落すると、スコットランド議会は国政の中心機関となり、さまざまな議会改革が進められた。この改革がイングランド長期議会での改革および大抗議文のモデルとして採用された。

派兵と内紛
スコットランドを統治していた盟約派は、「敵の敵は味方」の論理でイングランド議会派と誼を通じるようになった。議会軍の求めに応じて、盟約軍はカトリック同盟を平定すべくアイルランドに遠征したり、イングランドの国王軍の背後を襲うためにイングランド侵攻も行った。これは平定後、イングランドに「貸し」を作って将来の関係を優位にしたいという思惑があった。しかしこれはのちにことごとく共和政府に裏切られる結果となる。

そのいっぽうで、長老制を守り抜いて(ほかの二ヶ国と比べれば)平和になったスコットランドでは、盟約軍が結集する意味が薄れてきていた。こうしたなかで盟約軍のなかから、これ以上チャールズと争う必要はないとする者たちが出てきていた。モントローズ侯を中心とする盟約軍穏健派は、スコットランドで得た権力を失うまいとする強硬派のアーガイル侯およびリーヴン伯らと対立しはじめた。モントローズ侯はチャールズのもとに赴いて国王への忠誠を誓い、派遣軍が留守の間にスコットランドを平定してしまった。盟約軍穏健派は、実質国王派となった。

しかしイングランド内戦は議会軍の勝利に終わり、戻ってきた派遣軍・アーガイル侯と対立した。しかし戦闘は農繁期で、モントローズ侯のもとにはほとんど兵は集まらず勝負にならなかった。モントローズ侯は処刑され、スコットランドは束の間、アーガイル侯の執政体制となった。

なお、アーガイル侯は王政復古ののち叛徒として処刑され、モントローズ侯は英雄となった。

対イングランド戦争
強硬派が勝利した盟約軍は、イングランド共和政府に長老制実施の約束を履行するよう求めた。しかし独立派などのセクトが力を持つ共和政府、特に政府軍の反発を招き、両者の関係は険悪になってきていた。1648年盟約軍はイングランドに攻め込んだがプレストンで逆撃をこうむり、さらに1650年クロムウェルの来寇という事態を招いた。ダンバーとウースターで決定的敗北を喫し、スコットランドは共和政府に吸収合併されることになった。

イングランドが混乱していたころ、アイルランドでも1641年からカトリック勢力による武力蜂起が起こっていた。彼ら反乱勢力は国王軍とどうにか和平を結んだが、共和政イングランドによるクロムウェル遠征にあって鎮圧された。クロムウェルとその幕僚たちは敗残兵や民衆の虐殺を行い、共和政政府は債務弁済のためにアイルランドの土地をイングランドのプロテスタントに分与した。このことはアイルランドの人々の間に長く禍根を残し、現在に続くアイルランド問題の源となった。

アイルランドにおける清教徒革命・内戦では、しばしば三〜四の勢力で説明される。アイルランドの有産階級は、ほぼこのいずれかに分類できる。

ミア・アイリッシュ
カトリックであり、アイルランドにおけるイングランド王の支配を認めない人々。ゲール人などからなる。隠遁生活を送るかカトリック国に亡命する者が多く、地主として力を持つ者は皆無だった。
オールド・イングリッシュ
カトリックで国教会には従わないが、イングランド王への忠誠も併せ持つ。それ以前に植民してきたイングランド人の子孫とゲール人の双方から成る。信仰面から国教会やプロテスタンティズムを認めず、官職にありつけなかったものの、地主としては最も大きい勢力であった。
ニュー・イングリッシュ
プロテスタントのイングランド人たちの総称。それまでアイルランド総督府・議会を支配していたのみならず、地主として勢力を伸長しつつあった。イングランド内戦では国王派と議会派および多数の日和見に分かれた。

蜂起とアイルランド・カトリック同盟
武装蜂起は1641年10月23日におこった。この蜂起の理由については、アイルランドの地主たちの債務の帳消しを狙ったものであるとする説、ニュー・イングリッシュに奪われた土地を取り戻そうと立ち上がったとする説などがある。当初アルスターで起こったこの武装蜂起の首謀者はゲール系オールド・イングリッシュであったと推定されるが、多くのオールド・イングリッシュは蜂起に否定的であった。これが債務説が支持されるゆえんであるが、とにもかくにも武装蜂起はたちまちアイルランド全土に飛び火した。これには、総督府がオールド・イングリッシュをも反乱勢力とみなして敵視したため、彼らは反乱に合流せざるを得なかったという事情があった。したがって反乱勢力といっても徹底抗戦を主張する者と、早期の和平を望む者とが混ざりあっていたのである。

やがて総督府が反攻に出ると、反乱勢力はカトリック聖職者の助けをえて評議会「アイルランド・カトリック同盟(キルケニー同盟ともよばれる)」をつくり、組織化して対抗した。最高評議会員24名のうち5名が高位聖職者であり、その後かれらの意向が色濃く反映されてゆくことになる。

国王軍との和平
カトリック同盟は自らの名分として「神のため、王のため」立ったとした。したがって国王軍との和解・協力は既定の路線になるはずであったが、国王派の中にはカトリックを快く思わない者も少なからず存在しており、また同盟側にも国王を敵視する勢力があり、交渉は難航をきわめた。
メイン フェムト ブレンダー オーダ ジャッキ プロデ ハンド ヨーグルト ひょう リゾット しゅうばつ メーター ダンク デマンド サイトゲ バオアン アコウ カーレ アオイル カーネル モルヒ スター メトロ アシカ センチュリー カルーセル サラダ キャメ バック レイヤー 笑い話 風の子 リットル オジギソ りゅうら 宝石箱 ダンス ウンディー リベット アウテ ビー ジャケブル イバナ バタフラ いもがゆ トラックク レース バズーカ コリドー ブレーク

当初チャールズ1世はカトリック同盟を敵視せざるを得なかった。国王派は国教会に与しており、カトリックを嫌う者も多かったためである。そのため一時はアイルランドに兵を差し向けたが、議会軍との戦闘が始まると、アイルランドどころではなくなり和平に傾いた。しかし和平交渉はようやく1644年に始まったものの両者の要求が紛糾して進まなかった。特に国王側はカトリック教会の財産保持を認めず返還するよう要求したが、聖職者の影響力が強いカトリック同盟には応じられるものではなかった。

交渉が加速するのは1646年3月に国王軍の拠点チェスターが陥落してからのことである。3月28日に和平条約に調印したが、この条約は遅きに失した。勝利をおさめつつある議会軍はカトリックを敵視していたからである。さらに、条約調印をめぐってカトリック同盟内で抗争がおこり、条約賛成派が投獄されるという事件も起こった。そうこうしているうちにチャールズは断頭台の露と消え、クロムウェル率いる共和政府軍が迫ってきていた。

クロムウェルの遠征と虐殺
クロムウェルがアイルランドに上陸すると、たちどころにカトリック同盟は敗勢となり、1652年には組織的抵抗が不可能な状況になっていた。このクロムウェルの征服のさなか、および彼がスコットランドに渡ったのち、酸鼻をきわめる虐殺がアイルランド各地でおこった。かつて蜂起の際にニュー・イングリッシュへの略奪・虐殺があったことは確かであるが、それを遥かに上回る規模の意趣返しが行われた。陥落した都市から小舟で逃げようとする市民を舟ごと沈めたり、敗残兵・農民が避難した教会を建物ごと焼いたりといったことが繰り返され、60万人??当時の人口の1/3??が殺されるか奴隷として売られるか、あるいは餓死したとされる。ゲール人の中心都市ゴールウェイの市民は追放され、3万人が大陸に移住してゆき、残ったのは「トーリー」とよばれる追いはぎだけであった。これがのちに、イギリス政党の名の由来となる。殺戮がここまで大規模になったのは、クロムウェル自身が「野蛮人に対する神の正当な裁き」であるとしたこともあるが、共和政府軍の兵士たちの間にもバプティズムが浸透しており、これがカトリックに対する過剰な敵意となったことが指摘されている。こうした虐殺はアイルランド人の記憶に残り、現在まで語り継がれている。

2009年01月14日

詩経(しきょう、Shī Jīng)

詩経(しきょう、Shī Jīng)は、中国最古の詩篇である。古くは単に「詩」と呼ばれ、また周代に作られたため「周詩」とも呼ばれる。儒教の基本経典・五経あるいは十三経の一。漢詩の祖型。古くから経典化されたが、内容・形式ともに文学作品(韻文)と見なしうる。もともと舞踊や楽曲を伴う歌謡であったと言われる。

西周時代、当時歌われていた民謡や廟歌を孔子が編集した(孔子刪詩説)とされる。史記・孔子世家によれば、当初三千篇あった膨大な詩編を、孔子が311編(うち6編は題名のみ現存)に編成しなおしたという。孔子刪詩説には疑問も多いが、論語・為政篇にも孔子自身が詩句を引用していることから、その時代までには主な作品が誦詠されていたことが窺い知れる。

現行本『詩経』のテキストは毛亨・毛萇が伝えた毛詩(もうし)である。そのため現行本に言及する場合、『毛詩』と呼ぶことも多い。

その構成は、

各地の民謡を集めた「風(ふう)」
貴族や朝廷の公事・宴席などで奏した音楽の歌詞である「雅(が)」
朝廷の祭祀に用いた廟歌の歌詞である「頌(しょう)」
の3つに大別される。

「国風」は、周南・召南・邶・鄘・衛・王・鄭・斉・魏・唐・秦・陳・檜・曹・豳の15の国と地域の小唄や民謡を収める。「雅」はさらに「小雅」と「大雅」に分かれ、「小雅」は、鹿鳴・南有嘉魚・鴻鴈・節南山・谷風・甫田・魚藻の7什編、「大雅」は、文王・生民・蕩の3什編によって構成される。「頌」は、周・魯・商の3什編に分かれる。商頌は殷室の祭祀を継承した、宋の廟歌と言われている。

スタイル
作品のスタイルは基本的に四字句の連続で、畳韻のオノマトペを多用するところに特徴がある。作風は「素朴」に尽き、しばしば自由暢達の気風に富んだ楚辞の「騒体」と比せられる。また国風においては、その土地土地の習俗が反映されていると言われ、聖人の薫陶をとどめる「周南」や「召南」に対して、「鄭風」や「衛風」は軽薄の気風であると評価された(礼記・楽記「鄭・衛の音は、乱世の音なり」)。一方で特に小雅を中心に為政の乱れを嘆く作品も多く、古代人の切実な訴えに驚かされる。

また風・雅・頌が体裁上のスタイルであるのに対し、表現上には賦・比・興という3つのスタイルがある(体裁上の3スタイルと合わせて「六義」という)と言われている。

「賦」は心情をすなおに表現するもの
「比」は詠おうとする対象の類似のものを取り上げて喩えるもの
「興」は恋愛や風刺の内容を引き出す導入部として自然物などを詠うもの

作者
作者については、宮廷詩人・尹吉甫の名が知られており、また解説書のひとつ「毛伝」などが参考になるが、それも「雅頌」についてであり、「国風」に収められた詩編のほとんどは無名の人物の手になるものと考えられる。編者である孔子は、諸国遍歴の途次に、その土地土地の詩編を集めたと言われているが、すべてが採集によるものとは思われない。また孔子の没後、子夏・子張ら孔門の若い世代が潤色したところもあるだろうし、東周以降の作がまじっている可能性も高い。なお古代に「采詩の官」がおり、地方の詩を中央に送ったという説(鄭玄の『譜序』)もある。

レイアグト シアー リトル インジゴ マテハン トリプシン 万木かぶ ストロボ あんず ミング ローカル シャボン アーチ トミート スケー りゅう バーバー テンニン 対策いな パスタ 世界の橋 トレッ パレット レセル イスト トワイライ スター マカロ フォト はつとら ローン ザコン こくちょ ミシシ ミート ブーイ ディティ メルヘ ダウンタ バイフォー ゼット 発酵SEO フェムトセル 夕焼けの丘 サンテ ドリア ノーサイド タギング オミット オプシン

受容の変遷
詩経はその成立からして「礼」と横断するところがあり、孔子自身も子弟にその修養を求めているように、左伝などを見ると、当時の卿・大夫・士の必修の教養とされた。また史記の儒林列伝において詩家が五経の筆頭にあることからも解るように、漢初には重んじられていたことが窺える。のち宣帝のころに梁丘賀らの易家が興り、前漢末から後漢にかけての神秘主義=「讖緯説」の思潮の中で易家の地位は不動となり、漢書・芸文志では「易・書・詩・礼・春秋」の順に変化している。ただし冒頭にも触れたとおり、詩経に収められた詩編は韻文作品の祖型であり、東周から清代にかけて、最大の広義の意味での「中国文学」に与えた影響は計り知れない。

前漢では一芸に通じた博士が私塾において弟子に学問を伝授したが、後漢に入って太学におけるカリキュラムとして定着すると、詩家としての独自性は失われる。また思想界において経典化する一方、文学界においては、前漢の司馬相如や揚雄らを端緒とする賦(長文の韻文)が流行していく中で、換骨奪胎され、変容と再生をくりかえしていく。

詩経は『春秋』の場合と同じく、編纂者である聖人孔子の思想がそこに隠されているという考え方が強かった。特に漢代には、すべての詩編には必ずその発祥のもととなった史実があり、歌詞にはそれらに対する毀誉褒貶がこめられている(美刺説)、という考え方が主流となった。この思想は唐代の『五経正義』(古注)において決定的となる。しかし宋代の朱熹はこれに対して、「国風」については単なる民謡・小唄であり、なかには「淫奔者」の詩があると手厳しい批判を行い、詩経の学の面目を一新した(新注)。しかし「雅頌」については、従来どおり「聖人」の作であることを認めている。

なお詩経は日本にも古くに招来され、『日本書紀』によれば継体・欽明朝のころ、百済から五経博士が来日したという。以後、「博士家」において細々と伝えられたが、広く読まれた形跡はないようである。鎌倉・室町期に五山文学が興ると、道俗の間に漢籍に対する関心が高まり、「毛詩抄」のような資料も作られたようである。

テキストについて
秦の焚書のあと漢が勃興すると、魯の申培公(魯詩)が家伝の学を世に表し、ついで斉の轅固生(斉詩)と燕の韓嬰(韓詩)とが出た。三氏はみな漢氏の学官(博士)に立てられた(三官詩・三家詩)。のち遅れて毛亨・毛萇が出る(毛詩)。いずれも「美刺説」に基づくものであったが、両毛公は、孔門・子夏から荀子を経て伝わったという、先秦の字体(古文)によるテキストを用いていた。これに対して三家詩は、漢代通行の字体である「隷書」(今文)のテキストによって教授していた。

古文の学はそもそも武帝時代に博士となった孔安国の『古文尚書』に始まる。前漢末に劉歆が『左氏春秋』(春秋左氏伝)と『周礼』とを世に出したことで注目され、後漢には班固・馬融・鄭玄らの古文学派の大物が次々と現れた。詩家においては鄭玄が今文系の三家の学と毛詩の学とを比較検討し、毛詩のテキストをもとに四家の説をまじえた注解書を著した。いわゆる『毛伝鄭箋』である。以後、鄭氏の学が尊ばれるようになり、漢代の三家詩は衰えてやがて失伝する。その流れは、唐代に『五経正義』が定められたとき、『毛伝鄭箋』が標準テキストに選ばれることで決定づけられる。

また漢代以降、儒教が「国学」に定められると、そのテキストの異同が問題となった。そのため前漢の「石渠閣」や後漢の「白虎観」での会同に代表されるような宗論の場が設けられ、公式に認められたテキストを「石経」として刻んで公開した。特に後漢の蔡邕らによる「熹平石経」と、唐代に造られた「開成石経」とが知られている。

今日伝えられている詩経のテキストは、

後漢の鄭玄の作と伝えられる「譜序」
孔門・卜子夏の作と伝えられる「詩序」
両毛公が伝えた「経文」
毛亨の作と伝えられる「伝」
鄭玄の「箋注」
によって構成されている。これに対して新注のものとしては朱熹の『集伝』が有名である。漢代の三家の学を伝えるものはわずかに『韓詩外伝』10巻が伝わるだけで、ほかに清代考証学の成果として、三家詩系の輯本的作品である王先謙『詩三家義集疏』や、毛詩系の馬瑞辰『毛詩伝箋通釈』、胡承珙『毛詩後箋』などが知られている。

関連項目
楚辞
儒教
儒学者
五経
十三経
漢詩
中国文学
抄物